阪急バス路線物語(BLOG ver.)

阪急バス・阪急田園バスが運行する京阪神地区を中心に、「バス停」とその風景を撮り続けています。

『日本初の深夜バス』より古くから走った昭和30年代の深夜バス乗車記

 2018年3月30日深夜発を以って、阪急バスの深夜急行バス『スターライナー』の運行が廃止となりました。1990年11月30日に梅田~日生ニュータウンで運行を開始、2002年12月3日には梅田~千里中央・粟生団地、茨木・高槻の2路線が開設され、3路線が平日の深夜に運行されてきましたが、乗務員不足により2017年3月31日深夜便を以って高槻線を休止し週末・祝前日のみの運行に規模を縮小していました。

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 さて、日本における路線バスの歴史において、『日本初』の深夜バスは1970年(昭和45年)7月、東京都町田市の鶴川駅~鶴川団地を結ぶ神奈川中央交通が起源とされているのが通説です(*1)。

 しかしながら、阪急バスでは戦後復興を遂げる1953年(昭和28年)8月1日、鉄軌道の補完代行を主目的とした阪北線(阪北直行便)と京都急行線が大阪市内への乗り入れを果たすとともに、大阪~宝塚、大阪~京都間において『深夜運転』をはじめていました。『日本初』の深夜バスが運行されるよりも17年前、現在の深夜バス・深夜急行バスの原型は大阪で既にあったことになります。

 運行開始当初のパンフレットが池田文庫デジタルアーカイブで公開されています(
こちら)が、24時~26時台だけでなく、27時~28時台まで運行していたことが分かります。ただし、1953年12月26日に阪北線深夜便の減回が認可、1955年5月2日に京都線直通系統の減回が認可されており、27時~28時台の便は短命に終わったようです。

 「もはや戦後ではない」時代となった昭和30年代の深夜バスはどのようなものだったのか。1958年12月20日深夜発便の乗車記を見つけました。今から60年前のものです。

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 当時の深夜バスの様子を、現代の写真を交えて振り返ってみることにしましょう。

[引用における注意]
・なるべく原典のものをそのまま引用しますが、個人名等は修正をしています。(#)で表記した箇所が該当します。
・現代では不適切と思われる表現がある箇所については、引用を省略しています。


深夜バス同乗記 (*2)

 私達二人は越年資金も入りクリスマスも近づいて最近頓みに増加した深夜バスの御客さんの状態を、又その業務に携わる運転士、車掌さんのご苦労もさぞかし大変な事であろうと思い昭和三十三年十二月二十一日土曜日零時半分大阪本町のサブセンター発京都行急行深夜バスに同乗する事に致しました。本町サブセンターに十時過ぎに着くともう車は入っており運転士のY(#)、車掌のT(#)は事務所で休憩中だったので最近の深夜バスの状況等を聞きますと最近の乗客は以前より大分大人しくなって来たとの事、しかしまだまだ車内での八百屋は勿論の事、酷いのになると大小便をするし混雑にまぎれて無賃乗車する等相当に我々乗務員を困らせたり、又若いアベックに車内で熱い所を見せつけられるので若い車掌さんは当てられてたまらないそうである。

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▲現代では車掌はおらず運転士一人で対応。梅田発車以降は降車のみとなるので、乗車時に運賃を徴収していた。

 色々な事を聞いて居る中に時計の針は零時をさした。此の頃から大型、小型、各種タクシーが一台一台と此処サブセンターに集って来る。中から一杯機嫌の大虎、小虎が降りて来て足取も危っかしくバスに乗り込んで来る頃は良しとばかり私達も車中の人となる。
 車内はキャバレーで貰ったかトンガリ帽子を冠った者、民謡、流行歌から卑猥な歌等歌って居る者種々雑多である。
 又中には大阪-京都間電車の定期券を持ちながらバス賃を払うのは馬鹿らしい、とぼやいて居る者もあったが之は自業自得か。
 此れが自分の主人であり親であると思うと世の奥様方や子供様方が嘆かれるのも無理ない事だろう。
 零時十五分、池田発センター行きが忙しく通る。此のバスもセンター零時半に発車してい池田に向う深夜バスであると思うと乗務員の方々ご苦労さんと云い度くなる。

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▲ 梅田でバスに乗り込む乗客たち。呑んで帰る乗客も多かったが、大虎はいないのが現代ならではか。

 発車時間が来た、現在の所乗客は四十五、六名程度であるが中にうら若い女性が六名程見える。こういった大虎、小虎、女性連を載せたバスはサブセンターを後に一路京都へ向う。
 本町のサブセンターでは六名程が乗車する。南森町を過ぎて天六の手前当りまで来ると車内が暖いせいもあってか今まで賑やかに騒いで居た連中も約三分の二程がうつらうつらと櫓を漕ぎ出した所で車は天六へ着いた。
 此処は大変である。先に連絡してあった吹田からの応援者はもう立錐の余地もなく、応援者に乗れなかった客が押すな押すなと後から後からとつめ外からは威勢の良いサラリーマン風の青年が酒の勢も手伝ってか「もっとつめろ」と大声でどなり立てれば之れ又中から「もう乗れるかい乗りたければ屋根の上に乗れ」と応酬して居る。又一方中には「お互様だ終バスやから後がないぞもっとつめてやれ」と云って居る協力的な人もあり人様々で車掌さんが汗だくで客の整理をして居る。
 何か云って居るが怒声、罵声に消されて絶ざえ勝で聞えない。
 これが終バスなので残していく訳にゆかない。全くの大混雑振りである。
 停車する事約十分どうにか発車出来たが乗れなかった客も二、三あろうか、タクシーで我々の車を追いかけて来る。
 車掌さんはドアーにぶら下がったまま、危険な事で有る。
 車内では早や先程の威勢の良い青年と五十位の紳士とが口論を始めたが聞いているとまるで漫才で有る。しかし超満員立錐の余地もない所なので動こうにも動く事が出来ない状態で暴力沙汰までは行かない。(# 中略)

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▲ 女性客もいるが、ほとんどは会社帰りの男性客。補助席を使用しても積み残しが出そうになる。

 長柄橋を通過する際車掌さんが帽子を飛ばしたらしい、見ると無帽で有る。
 車は吹田市役所前に着いた。吹田営業所のO(#)主任が出て来られたが降りる客は殆んどない。国鉄吹田に着いたのが一時一五分降りる客は四、五人程度依然として超満員で有る。
 吹高前でやっと応援先行車に追いつく。見れば運転士さんは作業服、車掌さんは背広姿、深夜且臨時応援の為人が無いのか作業服の運転士は整備運転士のW(#)君、背広姿の車掌は計算係のy(#)君である。
 茨木に着いたのが一時三十分今まで降りた人は約二十名くらい、大分車内に裕りが出来たがそれでもまだまだ六十名は裕に乗って居る。
 ふと後を振り返ればタクシーで私達の車を追いかけて来た人がやっと追付いたと云う表情で二、三人タクシーから私達の車に飛び乗って来る。天六発車の時の賑かさに引換へ社内は静寂そのもの。もう今頃になると昼は車でごった返し居る此の国道も殆んど車に出合わなくなり自然と車はスピードが加わって来て聞えるものはエンヂンの音ばかり。

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▲夜の梅田を往く深夜急行バス。都心の夜はまだまだ続く。

 車内では座って居る者は勿論の事立ったままで白川夜船を漕いで居る器用な人も居る。桜工業前で京都発大阪行の深夜バスに出合う此のバスも席満位の乗車人員で有る。
 高槻に着いたのが一時四十五分、此処まで来ると車内も大分空いて来て応援車も引返す。車掌さんがy(#)君に帽子を借りて居る。
 帽子まで飛ばしての勤務さぞかし大変な事であろうと思う。
 島本を過ぎると五十五、六名位、殆んどが京都へ帰る客で有る。
 大山崎を過ぎた頃になると私達も他の客に釣り込まれてか上まぶたとしたまぶたが自然と仲良くなるが、然し乗務中の運転士、車掌さん、更に仕事と思へば同じ様に白川夜舟と決め込む訳には行かない眠い目をこすりながら一路京都へ向う。
 やがて久世橋を経て京都市内に入る。流石六大都市だけあってか二時を過ぎて居るにも拘らずちらりほらりと人の姿も見受けられ、赤い提灯をぶら下げためしやの入り口が開いて居る。
 京都七条烏丸に着く、此処は京都の玄関口だけあって降りる人も多い。眠けまなこをこすりながら大分酔も醒めたか或は帰ってから奥さんの御目玉を思ってか乗車の時とはまるで違った案外しっかりとした足取で我家目指して帰って行く。
 タクシーが深夜バスの客を当て込んでか京都市内各停留所に並んで居るのが目につく。此んな所でタクシーも深夜バスの御蔭を蒙って居るものと云える。
 途中たいしたトラブルもなくいよいよ終点京都市役所前に近ずく、二十名内外の乗客は皆一様にねむり込んで居り車掌さんが一人一人起こして行く。

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▲終点に近づくと乗客も疎ら。すっかり夢の中だ。(ぼかし加工をしています)

 大阪本町を出てから約二時間遂に市役所前終点についた終点まで乗られた約二十名、さぞかし御疲れの事であっただろう。
 何時も此れ位の人が乗って頂ければとつくづく思う。
 客を降ろした車は車庫に入り運転士、車掌さんが車の手入で有る。寒中深夜に車内を見ずで洗車する事は仕事と云へばそれまでだが仲々苦痛な事であろう。
 Y(#)主任、I(#)計算係も出て来て乗務員の労を稿っておられる。
 此れで本日の業務が終ったのであるが、あと二、三時間もすれば又明日の業務が始る。交通事業に携る私達は何と大変な仕事であろう。
 目を外に転ずれば三時を過ぎた御池通りに人通りは全く絶え寒々とした京の夜空には星がきれいにまたたき加茂川のせせらぎが私達を深い眠りへと誘い込んで行った。

 60年前の深夜バス乗車記、いかがでしたでしょうか。

 乗車記にあった京都急行線は京阪間の郊外地域から都心部への直通旅客の便益を供するものであり、阪急・国鉄などの鉄道線の補完的要素を兼ねていました。しかしながら、阪急電鉄が京都河原町へ、京阪電鉄が淀屋橋へ、鉄道の都心部乗り入れによって大きく影響を受けることになります。名神経由にするなどテコ入れを図りますが、1967年(昭和42年)5月1日の改正で直通系統31往復を2.5往復に減回して、阪急水無瀬で系統を分割するなど、ローカル輸送へと変わっていきます。京阪間の深夜バスもこの時期に廃止したのでしょう。
 また、内本町二丁目・梅田~池田~宝塚と運行していた阪北線直行便の深夜バスは、1953年9月30日に梅田~宝塚系統へと変更されることが認可され、1972年6月1日に国鉄川西池田~宝塚間の廃止により梅田~国鉄川西池田系統に短縮。さらに1976年3月8日にこの深夜便は廃止されてしまいます。それから14年後の1990年11月30日に梅田~川西・日生ニュータウンを結ぶ、深夜急行バス『スターライナー』が誕生します。

 『日本初の深夜バス』より以前から運行されてきた、阪急バスの深夜急行便。休廃止期間を含めて65年もの歴史の幕を、2018年3月に閉じたのでした。




[参考・引用文献]
*1 鈴木文彦(1988)「深夜バスの発展と現状」,『バス・ジャパン』8, p.42-45
*2 柳田・紀戸(1959)「深夜バス同乗記」,『阪急バス』2, p.44-46 ,阪急バス
* その他、阪急バス50年史など
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