阪急バス路線物語(BLOG ver.)

阪急バス・阪急田園バスが運行する京阪神地区を中心に、「バス停」とその風景を撮り続けています。

西谷と猪名川の往来は途絶えない(その1) -西谷自動車・武田尾六瀬線-

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 宝塚市西谷地区にある阪急田園バスは、旧西谷村の村営バスとして役割を以って運行が始まってから、西谷地区から武田尾、そして宝塚や三田へと路線を延伸し、住民の足を守ってきた。
 そんな阪急田園バスは、年に1度だけ、お隣の猪名川町にやってくる。その理由は
こちらで紹介しているところだが、そもそも阪急田園バス(前身の西谷自動車)が定期路線として猪名川町までやってきたのはいつ頃からなのか、ふりかえってみよう。
 この記事では、1951年(昭和26年)~1953年(昭和28年)まで運行していた武田尾~六瀬線について紹介する。

▼ 西谷自動車と阪急バスとの関係
 もともと西谷村(現・宝塚市西谷地区)と六瀬村(現・猪名川町北部)を結ぶ路線は、1921年(大正10年)に創立された「北摂乗合自動車」(前「北摂自動車」、昭和9年11月に社名変更)の「波豆線」が発端だった。同社は現在の川辺郡および豊能郡に営業エリアを持ち、「波豆線」は1933年(昭和8年)1月30日に川床口~大原野間を、9月30日に大原野~波豆間の免許を取得した。しかしながら、太平洋戦争に入ったことで、1938年(昭和13年)6月3日に一時休止。同社は戦後の1947年(昭和22年)1月に阪急バスに吸収合併されることになったが、「波豆線」自体は休止されたまま、1950年(昭和25年)2月10日に廃止された。なお、この波豆線の運行系統は、1948年7月1日付けの『バス休止路線復活計畫書(大阪運送管理事務所殿あて)』や1949年12月の廃止認可申請書によれば、運行系統は「山下~波豆」系統(16.8km)であったが、『阪急バス50年史』には「川床口~波豆」、「紫合~波豆」と表記がゆれている。廃止このとき、廃止理由は「山間閑散路線にて途中唯一の村落大原野には西谷バスありて武田尾に通す到底採算の見込なし」としており、このときに廃止された他路線とともに「以上の如く何れも目下休止中の閑散路線短距離線又は急坂の為燃料事情其他により再開見込の極めては薄弱路線でありますのでいつ迄も現在の儘にて放置も出来ませんので一応廃止の上後日必要を生じた場合更めて免許申請する事に致し度いと存じます」としていた。
 一方の西谷自動車(以下、西谷バス)は1924年(大正13年)8月8日に武田尾線の運行を開始させる。もともと西谷村の村営バス的性格を持っていた西谷バスは太平洋戦時下に運営困難な状況に陥り、昭和19年に已む無く「大阪公益社」に譲渡されてしまった。しかし地元の手で運行すべきだという声も多く、1946年(昭和21年)8月に新生・西谷自動車をスタートさせることとなった。
 バス事業の発展による法整備や安全確保などの社会的要請は小規模企業であった西谷バスには大きな負担となり、また人件費の増大も重なって、大手バス会社への事業譲渡が望まれていた。そこで、宝塚市に営業エリアをもっていた阪急バスに事業譲渡を打診することになる。阪急バスにとっては、旧「北摂乗合自動車」から川辺郡~西谷地区に事業区域を持っていた(=波豆線)、輸送体型上密接な関係にある地域だったため、これを受け入れて、1960年(昭和35年)11月29日に阪急バスの子会社化された。

▼ 神戸へ3時間半、伊丹へ2時間半。六瀬村と西谷村の願い。
 地理的にも産業(林業)的にも密接なつながりがあった、西谷村と六瀬村。上佐曽利と笹尾間を結ぶ、通称・笹尾峠の道路改良工事が1951年(昭和26年)3月に竣工したこともあり、同年、六瀬村と西谷村が西谷自動車への嘆願書を提出する。
[六瀬村村長から西谷バスへの嘆願書(昭和26年2月1日 提出)]
嘆願書
一、 路線名 府県道笹尾武田尾停車場線
 右路線は川辺郡有馬郡を連絡する重要な路線である為、昭和18年其の改修に着手したのでありますが、戦時中戦後の為非常に遷延し漸く昭和25年度に工事を以て完成致しました。
 就いては、林産物の搬出等に持つ自動車の運輸は非常に利便となり産業発達上喜ばしいことでありますが村民の都会への交通は府県道伊丹笹山線を通う乗合自動車が勇逸の交通機関でありまして伊丹へ2時間半、神戸へ3時間半を要し非常に困難を感じている現状であります。今回完成致しました府県道笹尾武田尾停車場へ西谷乗合自動車六瀬村笹尾まで路線延長をして戴くことが出来れば神戸市への所要時間も1時間半ほどに短縮出来得るのみならずにしたにむらへの交通利便古来三田町との交渉多き六瀬村としては其の利便誠に大なるものがあるのであります。
 以上の理由に依り村民一同、西谷乗合自動車の営業路線を六瀬村笹尾まで延長していただく様嘆願致す次第であります。
[西谷村村長から西谷バスへの要望書(昭和26年3月1日 提出)]
要望書
 県道笹尾・武田尾停車場線は本村を縦断し隣村六瀬村を結ぶ最重要路線であり、隅、本村地内上佐曽利と六瀬村地内笹尾との区間は通称笹尾峠により自動車交通は阻害され西谷・六瀬両村は不便を痛感していた拠、今般漸く同区間の剣道改良工事の竣工を見るに至り多年の両村民の念願は達せられたのであるが更に茲に於て両村の文かの向上、産業の発展と社会福祉のため本村内唯一の交通機関である西谷バスの六瀬村笹尾迄の延長営業をされる事は、これ亦両村民の多年希求せる想いであり早急にその措置を講せられるよう茲に要望します

 こうした地元からの要望もあり、西谷バスは武田尾ー六瀬線として、大阪陸運輸局に上佐曽利笹尾峠六瀬役場前間の新規路線延長を申請した。

▼ 運行開始へ。
 大阪陸運輸局は、1951年(昭和26年)1022日にこの新規路線延長に対して、許可を出す。
 武田尾―六瀬線を利用するとされる者は、六瀬村の住民3926人の30%であると想定し、年間21900人(1日平均60人、1便あたり20人ほど)の輸送客が見込めると判断したのである。
 もともと、六瀬村と西谷村は、地理的にも産業的(林業)にも密接な関係があり、往来も相当にあった。先述の嘆願書によれば、六瀬村から神戸・伊丹への通勤・商用客は、阪急バス(仁頂寺―伊丹線)を利用して神戸方面へ3時間、伊丹へ2時間半をかけ迂回して移動しなければならない状況にあり、この武田尾―六瀬線の開設によって、武田尾から国鉄を利用して三田・宝塚を経由して神戸・伊丹方面へ移動すれば1時間ほどの短縮が見込まれることになった。



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▼ 廃止の原因は『大水害』? 失われつつある記憶。
 この路線は1953年(昭和28年)、わずか2年で廃止されてしまう。昭和28年といえば阪神地区において大水害がおこった年である。これにより道路が封鎖され、往来が出来なくなったことで廃止された、と考えられる。

 現在のところ、文献としてこの路線のことが紹介されているのは、『猪名川町史』において「町内の笹尾と川床口から、それぞれ宝塚市の上佐曽利と大原野に至る西谷バスの路線があった」と書かれているのみ。前者の笹尾~上佐曽利の路線が、この武田尾六瀬線に相当するものであろう。なお、この町史を執筆された方や猪名川町への聞き取り調査によれば、1953年(昭和28年)の阪神大水害により一部道路が封鎖されたことによる臨時措置としての迂回運行だったのではないかという話もあるが、聞き取り内容などの資料が一切残っておらず、推測の域を出ないという。(2008年頃の猪名川町役場生涯教育課への聞き取りによる)

 ところが、ここ数年になって各公機関でのデジタルアーカイブ化が進み、国立公文書館において、当路線が申請されたときの書類が開示され(内容は
こちら)、更に宝塚市の市史資料室においても「西谷バス50年史」が閲覧可能になったことで、文献調査の可能性が一気に広がったのである。
 
 次回の記事では、1965年(昭和40年)1月5日運行開始~1972(昭和47)年11月1日路線廃止となった、広根線(松葉屋~宝地ヶ鼻~長谷~芝辻口~三蔵山~白坂口~川床口~紫合~広根)について紹介します。
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